昭和52年09月22日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。
信心のけいこが出来る。そこから信心の有り難さ、信心の喜びというものは頂けるです。昨日の御理解の中から頂きますと、人間の力はより後に成程より強いと。信心はより前に行うほど、より尊しと言った様な御理解を頂きましたよね。おかげを頂かなければならないと思いますと、思わず元気が出たり眠いと思うとってもパッと眠気が覚めるくらいにありますよね。おかげを受けんならんとこう思いますから。
けれどもそう言う事が、その人間はより後に成程、より強いというのはそう言う事だと思うんです。ですからそのおかげを頂かなければならんという、そのおかげの前におかげを頂かなければならんという前にする信心が尊いんだと。それが本当の信心だ。それがその本当の信心が分かったところから、けいこに通うて来ると言う事になると、いよいよ信心は楽しいもんだという意味の御理解でしたよね、昨日は。
昨日末永先生の手紙、今度公子さんが安産のおかげを頂いた。もう本当に安産だった。二日に入院して三日に退院して来るほどしに、そんなにまあ素晴らしいお産だったと。もうそしてもう本当に置いた物を取るように万事万端に、かかりつけの日本人のお医者さんが旅行中でおられなかったおかげで、あちらのブラジルの御信者さんの御親戚の病院に入院させてもらったと。おかげで二十万かかるはずのが一万円で済んだと言った様なおかげまでついてきておる。
でそういうならおかげは、そのそこまでの頂く前々からの信心が、ちゃんとしてあったからだと言うのです。又その人間によりより後に成程、より強いものが生まれて来るというのは、さあ家内が病院に入院したから、安産すりゃもうそのままだけど、もしこれが難産の兆でも見えると、親父が一生懸命になって神様におすがりをすると例えば。というのはそげんとでんやっぱ力が出る訳ですね、力が出る事は力が出るけども。
それはあの言うならば信心が後で後でになって行くのですから、結局おかげおかげで終わってしまわなければならない。言うなら平穏無事。先日からもお話、ある御信者サンが、丁度2年前の十三日会の日に初めて十三日会におかげを頂いて。2年後に仕えられる十年祭を来て大変感動した。それからその月から毎月一万円ずつ、十年祭、十年祭と思いを込めて貯めさせて頂いた。丁度今年の十三日会の日にちょうどお引き寄せを頂いて、丁度今日十三日会にお参りをするようになって、丸2年になります。
ちょうど24ヶ月になります。おかげで24万貯まりました。だから来月の十月の分を入れると25万円になる。おかげで御祭典費の、お供えが出来ましたと、お礼を言うてのお供えであった。その方はある小さい、小さいというか、お店のお手伝いに行かれとるとです。だから沢山な給料を取られとる事じゃ決してないです。ですから本当に貧者の一灯と、まあ、言う様な事を申しますが、もう一端のその方一端の真心であっただろうと、こう思います。
でその方がなら、もう信心は3~4年続きましょうか。けれどもそういう信心になられて、2年この方ですけれども。始めの間こそ色んなやっぱお願いがあって参って来たのですけれども、それも大して私が記憶に残っとらん程度のおかげである。そこから信心が段々分かって来る。おかげで考えて見ると、その2年間の間に特別なお願いをしなさらなきゃならないていう事は全然なかったと。いわゆる信心が先に立っとるから、おかげはもう言わんで、願わんでもずっとついて来とると言う事です。
その間には御普請もあった。御主人が全然信心がないのだけれども、あそこは対馬に行かれて、もう大変なあの千尋の谷と言う様な所に自動車が落ち込んで、もう死なんはずが死なんと、もう不思議というような所で、まあ自動車だけはもう目茶目茶だったそうですけれども、無傷のようなおかげ頂いて。帰ってやっぱお前が金光さんに参ってくれるけんじゃろうと言われるほどしのおかげを受けた事と。それから今年の寒修行にお参りの途中に、あの自転車で来るのですから滑って骨折をした。
そん時一ヶ月ほどお参りが出けなかった、けれども信心しよってどうした事じゃろうかと言った様なものは、サラサラなかったようです。もう私はとにかく、寒修行にお参りし抜こうと思いよったけれども、お参りが出けんけん、アンタが参ってくれんのと言うて、娘さんがずっと参ってきた。おかげで3~4ヶ月前には、御普請が出けるのと同時に、もうそれこそ立派な、奉祭式まであったお神様の。御本部で立派なお社買われて、それも御主人も賛成。
しかもこういう有り難い神様のお話を、一つ村内の人達も聞いてもらいたいと言うて、村全部を招待してから、そのお祭りがあった。こっから先生達が、竹内先生と光昭でしたでしょう。二人が祭員でおかげを頂きました。こういう、そのあの先手の信心と言うですかね。もう信心のけいこが身について、それが行じられるところには、特別にお願いせにゃならん事、起こって来んと言う事が分かりますね。
けれどもいくら何十年参りよっても、ただそれがおかげを受けなければんらんからと、成程それは何かおかげを受けなければならんごたる時には、パシッと目も覚めますしね。やっぱこう、力が出ますけれども。そういう後手後手になるような言うなら信心では、これは信心のけいこという事は言えない。それはおかげ頂く為の信心と言う事になる。私はいつもこの御理解を頂く時に、もう始めから最後まで、ここには信心のけいこに来る所。まめな時に参ってここへ信心のけいこをしておけと、結んであります。
だから私結局信心のけいこに通うて来るという事と、それはもう紙一重だという事。昨日、研修の時に若先生が申しておりましたが、もう本当に信心のけいこ、信心のけいこと言うけれども、実を言うたらもう本当に心の中に、何かこう一変したもの。一心発起するものが、それこそ一年一行ですよね。と言う様なあの信心が出けて来なければ、言うならその価値観の価値観。値打ちと言う事です。信心の値打ちというものがです、それを切りかえるそこが分からなければ。信心を頂けば昨日の御理解で言うと。
信心して神に奉られるという事を有り難いと心得て信心せよというのは、信心の価値というものが分かって信心する事だという事なんです。ところが信心の価値が分からずに、ただおかげを頂く事の有り難さだけの信心であったら、同じなら十年信心しても、大変な相違、違いだという訳なんです。だからその信心ていうものは、この様に素晴らしい所謂あの、価値観を分からせると言う所に、取次ぎ者は取次ぎ者としての、まあ信心の力というか技量というか。そういうものがいるですねって。
もう私の場合なんかはもうこの信心、信心と言う事を皆さんに聞いてもらうけれども、まあだその技量がないし力がないんだ。というてなら分からせようと気張らんでも、なら分かって行く人は分かって行きよると言う事なんです。何十年信心して続けておっても。総代だ幹部だ何々だと言うて、なら信心の価値が分かって、おかげの価値は分かっておって。けれども信心のその値打ちというものを分かっていない、信者がどれだけおるか分からないと言う事。
信心の値打ちを分かれば、信心をしなけりゃおられないし。信心のけいこをしなければおられないし。そして自分の心の中に生まれて来る、その信心の喜びをいよいよ育てて行く事にならなければならない。昨日日向の日向教会の竹内先生から手紙が来ておる。本当に、何回しか家内と二人でお参りをした事がないけれども、先生の教えを頂いて、あの初めて御大祭にお広前がいっぱいになったという、あの教会なんです。
家内と二人でもう本当に合楽の信心を、愈々けいこさせて頂くようになったら、不思議にこの頃はね、どこから湧いて来るか分からん信心の喜びが湧いて来て、涙がこぼれると書いてあります。今までかつてそう言う事がなかった。だからその涙がこぼれるような信心の喜びを愈々育てて行く事の為に、言うならば合楽理念がある。だから問題はその信心の本当の喜びというものが分かって来るところから、今度それを育てる手立てというのが、信心のけいこなんです。
昨日は親教会の秋の御霊祭りでしたから、私ども親子三人で参拝させてもらいました。帰りに原さんのところの前で、ちょっと止まらせてもらいました。あちらからあの傘を借っとったそうですから、傘を返しにちょっと寄らせて。仕事場には誰もおりませんし、陳列の中には洋服一着かかって、何ももうあの何と言うですか。もう店はしよりなさらんような感じである。先日から昌一郎さんがお届けに見えました。不思議な事に先月から、私も家内の上にも仕事がパッタリ止まっておるという。
それを聞いておりましたから、お届けをさせて頂いておりましたから、本当にあの洋服屋の大きな陳列に洋服が一着かかっていないし、仕事場には誰も仕事しておる模様がないし。もう、私は自動車の中で一生懸命お願いしました。そしたら神様から頂きます事がね、神がままになっておる時と頂きましたよ。そう言やあこの頃から原一家中で、それこそご祭典費がこれは、アンタ家にこげな沢山なお金があったの、ちゅうごたるお供えをしとるです。神様がままになりござる時です。
それにも関わらず、商売はパッタリ止まってしまっておるっちゅうんですから。お願いをする言うならば右と願っても左となる。左と願っても右となる。そういう時には神様の願いが成就しておる時ですから、一番素晴らしい時です。願った事が願い通りに成就する時には、用心が必要です。それこそお願い通りにおかげを頂いてから有頂天になって、もう自分が信心が出けたから頂くごたる思い方をするものです。
だから信心が分かる、信心がしとらなければそこが分からんです。これほどの一家中を挙げて一心の信心をさせてもらいよる。しかも一家を挙げてです、もうそれこそ何も始末倹約させて頂いても、願いに願って来た十年祭の言うならば御祭典費は、もう誰よりもいち早くお供えさせて頂けるほどしのおかげを頂きながら、なおかつ商売は先月からピッタリ止まってしまっとる。もう二人家内は両方の仕事が止まるなんて、こんな事はまっ、かつてない事でしょう原洋服店で。
これほど信心するのに、どうした事っじゃろうかと言う様な事では、日頃信心のけいこが出けとらんちゅう事になる。信心のけいこが出けとるならば、これはただ事じゃないぞという気が起こって来るです。そしていわゆるいよいよ神様の御都合だろう、どういう御都合かと言うと神様がままになりござる、神様がままになりござりよると。そう言う所を通らせて頂いて、それこそ夢にも思わなかったようなおかげの展開というのは、そういう信心からしか生まれて来んです。
ええですか。これがおかげを頂く為の、ならばこげんお参りしよるとに、かえって商売だんだんなかごつなった。もう全然なかごつなったと言った様な時に、これは参ったっちゃ同じこつと言う事になる訳でしょう、おかげだったら。おかげが目当てだったら。けども信心が目当てであり、信心のけいこであるならばです、これは愈々神様のこういう修行を求めなさるという事は、愈々何かがあるに違いない、神様の御都合に違いはないと思うから、その御都合のところを、愈々分からせて頂こうと精進する。
神がままになる。思う通りになる時には用心がいる。願うても右が左、左が右という時には、もう愈々神様の願いが成就しておる時だから、愈々有り難い。その向こうに思いもかけなかった、夢のような言うならばおかげの展開というのは、信心の力によって願わんでも頼まんでも、現れて来るおかげの事を言うのです。言うならば凄まじい神様の働きというのは、信心のけいこの出けたその向こうにあるのです。
ずうっとお願いし続けんならんと言う様な信心では、だからこれはおかげを、よし頂いても本当な事っじゃない事がわかります。ならお願いさせてもらいよりましたらね、こげな風にして頂いた。あの指をこうがしにぎりしとるね、握りこぶしを作っておるとから、この親指と人差し指を、こう立てとるとこういう。親と子との間にこうやって断絶が出けとる訳。親指と小指をこうやって。
なら真ん中に何があるかと第一薬指、たかたか指人差し指。薬指というのは、健康の有り難さが分かり。言うならたかたか指というのは芯ですから。ほらあもう日々の改まりが足らん、いよいよ信心とは本心の玉を磨く事ぞと分かる。例えば原さんとこなんか、もう原昌一郎さんが、今日例えばあると言う事は、もう不思議で不思議でたまらんごたる事ですからね。もう死の一歩手前におったんですからこの人は。
だからここんところの有り難さ。薬指ていうのはこれなんです。それに信心とは本心の玉が、こう上に信心の芯が置かれて。言うなら人差しというのは人間関係とか。人徳人間の言うなら神徳。こう言う様なものが頂き、分からせて頂くところから、今なら神様ままになってござる間に、どう言う事を一生懸命せなんかというと、人事の限りを尽さんならん時である。いよいよ本心の玉を磨かなきゃならん時である。
愈々本当に自分というものは、神様のおかげあればこそ今日の自分があるんだと、言うならば二十数年前のない命を助けて頂いた時の事を思うて、今日生きておるというだけでも有り難いんだ、勿体無いんだと信心がこういう親子が断絶になっとるかの様な時にです、是が本気で分からなきゃならない、本心の玉を磨く事であると言う事が分からんならん。言うならば人差し指。これは人事の限りを尽くさんならん時と言う事。
もう願っても願ってもどうもしようがない。おかげにならん。むしろ願や願うほど右と願や左となる。しようがないからそれこそ教会にでも行って、一生懸命御用でもさせて頂くより他にない。これが人事の限りです。人事の限りちゅうのは、バタバタして商いがなかけんで、さぁあっち注文取り行ったり、こっち誰頼み行ったりと言う事じゃない。人事の限りというのは神様に向けて一生懸命なる事だと言う事。
この三つをなら今の原洋服店では、神様が求め賜っておる時であるから、是が三つ立ち上がった時にです、もうどんなもんでも握げれるわけ。そういう働きが生まれて来ると言う事。私は皆さんこの辺の所は一つ納得し、合点しとかなきゃいけんと思うですね。本当に一生懸命お願いをしてままにならん時には、もう絶対神様の神様がままになりござる時です。だから愈々神様を中心にした、神様本意の信心が出ける様になりますから、神様がその向こうにはですもう氏子本意、氏子任せのおかげが頂かれるのです。
あの素晴らしい徳とか、おかげというのは、私はそういう信心を抜けた所から頂けると思うですね。これも昨日研修の時に話した事ですが、先日の矢部地区の共励会の時に、本当にここに子供の時について来よった時には、そげん目立たない子供でしたけれど、段々中学から高校に行く頃になったら、どんどん成績が上がりましてもう学校でも一番ていうぐらいに、剣道も矢部では一番と言う位にもう剣道が強い、勉強が出けると言うので、もうそれこそ後藤さんの所、まあそれこそ何と言うですかね。
その、何とかが何を産んだちゅうような感じですよ。そして素晴らしい会社に就職して、頭が良いもんですから、お父さんやらお母さんやらの信心を、まあ言うなら軽く見ておる。子供の時はついて参って来よったけども、もう中高校ぐらいになったら、むしろその信心の事を軽う見るようになった。けれどもその自分が行きたいところ、学校の先生が言うて下さるところやらは、その頭があの良いし、剣道が強いからそう言う事で引っ張られるような会社に行きたかったんです。
ところが神様はあのこの会社、これが何とかでしたかね西岡先生。えあげん言いよんなさる所はっは、私はみみらんもん何とか金属です。はいところがその行ってみるところが素晴らしい会社だそうです。それで今度有り難くなって来てから親父達がその、おかげの泉やら新聞やら送るでしょう。そしてから先月の手紙の来た話を後藤さんがしておったそうですが。もう本当にあれほど信心が分からん子供と思いよったところが、もうおかげの泉を繰り返し読むそうですって。
もう暇のある時にはおかげの泉を読むそうです。そして親先生が一番最後にどうぞと言うておられる、あのどうぞで僕はいつも、おかげを頂くという手紙書いてあったそうです。私はそれ聞いてからね、何かジーンとするもの感じました。あのおかげの泉を読まれる。私がお話をした後に、いつもどうぞと言う事を言うでしょう。それけんそのおかげの泉もやっぱそげん、最後にどうぞと書いてある。僕はあの親先生のどうぞだけに感動すると、なかなかその頭も良いから、そのキャッチ力も強いと。
本当に神様がどうぞ信心しておかげを受けてくれよという、あの願いあのどうぞの中には込められてる訳なんですよ。そして昨日あの後藤さんの信心を、その今の〇〇さんの話じゃないけれども、本当に後藤さん達がいやそげん言うと先生、今度の共励会の時にはその後藤さんが素晴らしい、その開眼をしようとしておりますという話を聞いた。私どもも本当に毎日でも日参でもさせて頂くけれども、結局まあここに書いてあるひよう取りの仕事をしておりますから。
今日はお祭りが今日は何々の御用だと言うても、中々それが思うごと出来ませんち。それでもやはり神様へ思う、願いは切実に持っておるんですけども、西岡先生こういう時には、どういう生き方がありますかと、いう質問をしたと言うのです。そこからまぁ適切な答えを先生が言うて話しておられますけれども。結局その求める信心です。所謂本当の求道なんです。こういう時にはどういう信心を、させて頂いたらと言っておる訳です。もう忙しい事は神様が御承知じゃけんでと、言う様な事で片付けるとじゃない。
それけんちならお願いやる時には、ヤーヤー言うてお参りするという信心でもない。本当の信心を分かる為には、こういう時に私共の様なひよう取りは、なかなか御用も出けんし、お参りも出けんが、どういう心掛けにならせて頂いたらそれが出けるようになるだろうかと、こう言う様な質問をしたというのです。だから本当な信心が分かりたい。それこそ、私は行った事がないですけれども。
前はそれこそ山小屋のようなお家に住んで、おかげを頂いて火事、で丸焼けになったおかげで、現在のまあ家に住まわせて、もう現在の家が建ったわけ。そしてかえって焼け太りの、もう本当に不思議な不思議なおかげを頂いて、まあおかげを頂きよる。もう、その火事を境に村内のモンがビックリした。今まではもう村内の人達でも、親戚でもお付き合いをせんぐらいだったらしいですね。ところが親戚の方が頼って来る様になり、村内の人達がその自分達も連れて参ってくれないかと。
何時でしたかね、あの、村会議員の選挙か何かの時には、村長さんやらあそこの村会議員達まで連れて参ってくれと言うて参ってきた事があります。と言う様に認められてきた。今までは友達寄り合いで、友達の会合なんかにも、その後藤さんはかて残されちゃった。けども段々そのまあ言うならば、他に認められて来た訳でしょうね。だから色んな会合にでも、やはり後藤さん出てくれという風に、段々なって来たと言う事です。人間が変わって来る、おかげも変わって来る。
だからどうでも一つ信心の、ここにはけいこに来る所と言われるのですから。成程何か困った事が起こって来ると、やはり目はパチッと覚めるし、今まで出なかった力も出るというような信心では、もう後まきだと言う事です。信心はより前に行うほど尊いと言うのですから、信心が一歩前に出ておる信心。一つそういう例えば、信心をさせて頂いておってもです、右と願って左となると言った様な時には、いよいよ持って神様の大きな御都合であり、神様がままになっておりなさる時であるから。
愈々より尊しという信心が出来る訳です。ところが信心しよってどうしてこんな事があるだろうかと不平不足ども言いよったら、より尊いという信心をさせて頂けれるチャンスに恵まれながら、言うならば信心がまた、言うなら九の字から八の字に下がって来るような結果になるのです。こういう時に九の字から一つ十の字に進んで行くような信心はです。神様がままになってござる時と言う様な信心が分かって来るところから、信心の勢いは出て来るもんだと思うです。信心のけいこ。
まあ後藤さん、原さん。または今申しました方達の、まあ三人の信心を、まあ聞いて頂いた訳ですけれども。ね。信心の言うならば鍛えというか。信心を養うと言うか。自分の心をいよいよ豊かに大きく養うて行くという信心。いよいよ御霊祭りが近づいた。神様が言うならば御霊様の、もちろん神様の御演出でしょうけれども、様々な御霊様の働きがあっちこっちで起こっておる。
先日から今村和子先生が頂いておるように。霊徳天命の儀と。昨日私は善導寺の御霊祭りで御祈念中に頂いた事は、最近金光教の信心の中に、非常にまあ簡単明瞭にお祭りになって来た。もうお供えもちゃんとしとく、もうとにかく便利はええ。まあ言うなら時間も短縮される。そう言う様な傾向のあるところを頂いてですけども。私共が正式なお装束を着ける時に冠を被りましょう。
あの冠のこの後ろへ足れておるところ。あれを取ってそれからここにこう、あれは昔はその髪結うとりましたからね、その髪をこうやって上にねじ込む、上にあるでしょうが。あれも取れるわけです。そすと穴がほげてその取るところ。それだけを被っておる姿を頂くんですよ。成程まあ帽子のごたるふうに被っとるけん、もうヒモもいらんしね。ここが開いとるけん、頭もスースーしてかえっていいしね。後ろにこう足れていないけん、面倒くさくない訳です。
というのが今の金光教の信心させて頂きながら、簡単に簡単にと言いよるのは、そういうようなもんだと。言うなら、今村先生が頂いておるように、霊徳天命の儀と言う事は、そういう儀式なの。御霊が御霊の位も一段と進ませて頂くその儀式なんだ。だから儀式を言うならば、簡単にすると言った様な事ではね、言うならばお祭りも神様が簡単にして下さるようになって来る訳です。だからもう本当に御霊様へ、でも神様でも同じですけれども、思いを込めた、しかも簡単に切り捨ててと言う様なもんじゃなくてね。
本当に御霊のそういう儀式の時ですから、例えば家族が勢を揃えて。さあ子供も来い孫も来いで皆がお祭りに併せて頂いて。玉串の一つも皆が上げさせて頂く。儀式なんです家族中の者と先祖に沢山のござる御霊様との一つの交流の儀式なんです。言うなら霊雪嶺天命。それこそ雪の中に凍えてござるような感じの御霊様でもです、こういう言うなら正式な儀式に会う時にです。
そこから救い出してでも頂こうかというほどしの、言うなら目には見えない、疑えば限りがないけれども、そういう儀式だと言う事をです、私は今村先生を通してこう言う事を教えておられると言う事は、もう合楽に御霊祭りが近づいて来た。必ず御霊の色んな働きが沢山あってる訳ですけども。こういう適切な御理解を下さるという事は、合楽にご縁を頂いておる一人ひとりにこの事を伝えてくれと言う事に違いはないと思うんです。だから、なら皆さんにもこうして繰り返しお伝えしておる訳ですけれどもね。
そう言う様な事でもです、信心を目指してからの、言うなら御霊への奉仕でなからなければ。昨日の御理解の中にも申しましたように、先祖を大切にすると言う事は、わが土地を養うようなものと頂いたんです。先祖を大切にすると言う事は、自分の土地に肥料を施して、豊かな豊穣な地にして行くのと同じ事だと。だからそういう信心を頂き、内容としてです、お互いが愈々信心のけいこをさせて頂く。それをまあ言うならば、ならおかげを頂くけいこと言うても良い訳なんです。
ただおかげを頂く為に信心するじゃなくて。おかげ本当のおかげを頂く為の信心のけいこをさせて頂かにゃならんと言う事です。これは教会だけの事じゃありません。簡潔になって来た、簡単になって来た。だから神様ももう簡単に、ねっさりとしたお祭りになってしまう訳です。合楽辺りの場合はもう愈々思いを込めて、ひと言でも手を抜かしちゃならんと言う様な信心をさせて頂くから、お祭り度に段々そういう言わば繁盛一途を辿らせて頂くおかげを受けられるのも。私がそう言う事が大嫌いだから。
それはもう他所の先生方もそうにゃ、もう不満らしいですもん。夏の大祭なんかね、もう何処でんちゃんとお供えがしてしもうちゃる。それはやっぱ暑かつやし、こうやって抱え出さにゃんけんで、けれども私はやっぱり、いわゆる儀式は儀式として、あのもちろん、それが形式化してしまっては、また愈々つまりません。だから形式化ではなくて、それがそういう言うならば、御霊も私どももおかげの頂けれる一つの儀式であると思うたら、人手だって退かす事は出けません。愈々明日御霊のそういうお祭りですから、手を抜かんで御霊様との言うならば交流を計らせて頂きたいと思います。
どうぞ。